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海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

第35回防衛セミナーの報告(その1:講話編)

 昨年の書き残しのひとつである防衛セミナーについては、少しづつ記事を書き進めてはいたのですが、年内投稿には間に合いませんでした。2週間遅れなりましたが、報告させていただきたいと思います。

 なお、演奏会の動画をアップしたことだけは、既に報告済みです。

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 2018年12月18日(火)、横須賀芸術劇場で開催された「第35回防衛セミナー」を聴講して参りました。

 今回の防衛セミナーのタイトルは「明治150年記念セミナー 〜旧軍港都市横須賀の歴史〜」というものでした。

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 プログラムをご覧になるとわかりますが、セミナーの冒頭に「国歌独唱」が行われました。もちろん、三宅由佳莉さんです。私もこの独唱をスマホで撮影したのですが、直立不動の姿勢でのノーファインダー撮影となったため、画面を観ながらの露光調整ができず、せっかく独唱中の三宅さんの顔が照明でハレーションを起こしてしまいました。公開するにはあまりのデキだったものですから、記事への埋め込み動画をどうするか思案していたところ、kevin_dayo_dayoさんがアップしてくださった動画を発見しましたので、リンクを貼っておきます。埋め込み再生ができない設定になっているようですので、サイトまで飛んでお楽しみください。動画をご覧になると分かりますが、三宅由佳莉さんは両手の拳を握りしめて歌っています。これは、自衛隊における「気を付け」の姿勢です。国歌の独唱にあたり、その姿勢で臨まれているということです。

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 防衛省の行事では、このように国歌独唱で始まる機会がとても増えています。かつては国歌の吹奏や斉唱が圧倒的に多かったですし、それはそれで素晴らしいのですが、プロの声楽家による独唱は、この歌が持つ恒久平和への祈りというものを、より研ぎ澄まされた形で伝えてくれる気がいたします。

 国歌独唱で幕を開けた防衛セミナーですが、今回の主催は「南関東防衛局」ですので、まず、掘地徹(ほっち・とおる)南関東防衛局長より開会のご挨拶がありました。

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 引き続き、今回の防衛セミナーを後援する横須賀市の上地克明(かみじ・かつあき)市長のご挨拶をいただきました。

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  そしていよいよ、講演が始まります。

 最初は、防衛省海上幕僚監部防衛部に所属されている金澤博之(かなざわ・ひろゆき)3等海佐による「明治150年と日本の近代海軍建設」と題した講演でした。金澤3佐は、「慶應義塾大学・大学院で日本史を専攻したのち、2002年に海上自衛隊に入隊。横須賀地方総監部、防衛研究所戦史研究センター等を経て、現在、海上幕僚監部防衛部に勤務。2014年に防衛大学校総合安全保障研究科後期博士課程を終了。博士(安全保障学)。主著『幕末海軍の興亡』(慶應義塾大学出版会、2017年)で、安全保障分野における優れた研究成果に対して与えられる『猪木正道賞(正賞)』を、防衛省職員として初めて受賞」(セミナーパンフレットより)された俊英です。

 経歴をご覧になればわかるとおり学者さんですが、もちろん自衛官としての専門職種をお持ちで、勤務に勤しむ傍らで学者としての研鑽を積んでおられるのです。左胸に艦艇徽章やウイングマークは装着されておらず、確か、海幕防衛部施設課所属と紹介されていたと思いますので、職種は施設なのかもしれません。海上自衛隊にも、数は非常に限られていますが施設を専門とする幹部がいます。

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 30分という、非常に限られた持ち時間の中で「明治150年と日本の近代海軍建設」という大きなテーマを展開するのは大変だと思います。それでも、時折冗談を交えながら、門外漢にも分かりやすく話をされるので、ついつい引き込まれてしまいました。

 短い時間にも関わらず、講和内容は多岐に亘りましたが、私なりに咀嚼するならば、その骨子は次のようなものです。

 帝国海軍が生まれたのは確かに明治政府の下ですが、ゼロからの建設であったならば、日清・日露戦争での大海戦を戦うことはできなかったはずです。江戸時代末期にペリー艦隊が来航する以前から、徳川幕府は、戦国時代を通じ、海賊集団から水軍へと変容し、独立した私兵として諸大名に加勢したり敵対したりしながら大きな影響力を発揮してきた諸水軍を「船手」として再編し、さらに幕府の直轄軍事力として隷下に収めていましたが、とても近代海軍と呼べるようなものではありませんでした。

 ペリーの来航により近代海軍の保有が焦眉の急であることを認識した幕府は、その建設に着手します。驚くべきことに、ペリー来航からわずか7年後の1860年には、太平洋を横断して咸臨丸の米国派遣に成功し、米国民からは驚嘆を込めた大歓迎を受けていますが、その基盤には長年に渡り慣海性を身につけてきた「船手」衆という熟練者集団の存在があります。

 また、鋼鉄製の軍艦を建造するためには、大規模な製鉄所と造船所、更には製鉄に必要な石炭の採掘・輸送などのインフラ整備が不可欠でした。

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 勘定奉行小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)は、長崎と横須賀における製鉄所と造船所の建設を推進し、これらへ給炭する仕組みを作り上げていきます。幕府内には、巨額の予算を必要とするこれら事業への反対論も強かったのですが、小栗はそれらを退けます。

 時勢から、幕府が倒れるのを予感していたからでしょうか、(新政府に)遺してやれるものができたというような発言もあったようです。

 因みに、講話では触れられませんでしたが、日本海海戦に勝利した東郷平八郎元帥は、明治新政府の手により罪なきまま斬首された小栗忠順の子孫を自邸に招き、今次海戦に勝つことができたのは、小栗忠順が遺した施設のおかげであると礼を述べたとのことです。真のエリートとは、小栗のような人を言うのでしょう。

 このように、江戸幕府の尽力により築かれたインフラや、徳川家の下で建設が始まった近代海軍の数多くの失敗から得られた教訓の蓄積といったものが、明治政府にそのまま引き継がれたからこそ、極めて短期間に近代的な帝国海軍が生まれたと言えます。

 草創期における明治海軍の主要艦艇は、ほぼ徳川幕府海軍のものでしたし、人員構成でも、幕府海軍出身者が最多(約30%)だったことからも、そのことがわかります。

 金澤3佐は、日本各地に多く残されている海軍史跡について、実証研究を進めることが必要であると述べていました。史実と神話の線引きを確実に行うことにより、我々が歴史から学ぶべきことを明らかにするとともに、それら史跡の観光資源としての価値をしっかり裏付けていくことが必要だとご教示いただきました。

 若き研究者、金澤3佐の今後の研究成果に大いに期待したいと思います。

 

 次に講話されたのは、横須賀市自然・人文博物館で学芸員を勤められている、安池尋幸(やすいけ・ひろゆき)氏で、「横須賀市に芽生えた近代技術」と題した興味深いお話でした。

 安池さんは、「國學院大学大学院で日本史を専攻。1982年の横須賀自然・人文博物館の設立より学芸員として勤務。長年地域に密着した研究テーマに取り組む。主な著書として、『三浦半島自然と人文の世界』(神奈川新聞社、2009年)『新稿三浦半島通史』(文芸社、2005年)がある。また、市民向け講座や野外見学会を多数実施。旧横須賀製鉄所に設置されていたスチームハンマー(国指定文化財)を題材とした教材用DVDも制作している」(セミナーパンフレットより)方です。

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 この講話も大変興味深かったのですが、生憎、レジュメがあっさりしているものですから、ほぼほぼ私の記憶のみに頼った内容となります。

 横須賀市に製鉄所と造船所が開設され、海軍横須賀鎮守府が置かれたことにより、海軍の街として横須賀が発展してきたことは間違いありません。幕末から明治初期にかけて建設されたこれら施設の多くが、未だに現役として活躍しています。

 もっとも、明治の初期には十分な建造能力があった訳ではなく、海外に発注して建造してもらった艦艇も少なくありません。日本海海戦で旗艦として活躍した戦艦「三笠」も英国に発注して建造され、日清・日露の海戦を戦いました。日本海海戦の際、英国の観戦武官が同艦に乗艦してその戦いぶりを記録し、この艦の欠陥を本国に報告しました。その報告を受けて建造されたのが「ドレッド・ノート」型戦艦です。つまり、艦の上面や重要区画の防御を強化するため、装甲を厚くし、砲を増やし、しかも速力を増した強力な戦艦が登場した訳です。

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 因みに、今でもよく使われる「超ド級」という言葉の「ド」はドレッドノートのことです。つまり、ドレッドノート型を凌ぐ戦艦建造が話題となっていた時代に使われた「超ド級」という言葉が、その響きの良さから今でも使われている訳です。

 ドレッドノート級戦艦の建造が世界の潮流となり、日本もこれに参戦していくことになりますが、その舞台が横須賀造船所だった訳です。

 造船だけではなく、横須賀には、海軍機関学校や海軍通信学校が置かれ、海軍の中でも技術系の優秀な兵員が数多く横須賀で教育を受けていました。明治以来、海軍建設を通じて横須賀に芽生えた近代技術をリードしていくという気風・伝統のようなものは今にも受け継がれており、最近、横須賀市の高校生が、第6世代スマートフォンの基礎技術に関する特許を取得しました。

 興味深い話は、もっともっとたくさんあったのですが、ちょっと時間が経ちすぎて、印象的なものしか記憶から取り出すことができませんでした。

 何れにしても、私が若き日の4年間を過ごした横須賀ですが、知らないことばかりで、本当に興味の尽きない講話でした。

 

 地方防衛局主催の防衛セミナーに参加したのは初めてですが、正直言って、これほど興味深い内容の話が聴けるとは期待していませんでした。嬉しい誤算です。今後も近くで開催される際には是非参加してみたいと思いました。

 日本各地で開催されているはずですので、よろしければ皆様も会場で聴講されてはいかがでしょうか。

 長くなりましたので、演奏会については別記事にしたいと思います。

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