あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

今日は何の日?(9月16日)

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 「メフテル」をご存知でしょうか。

 え?「銀河鉄道999」の?そりゃ「メーテル」だ。

 メフテルとはオスマン帝国(現・トルコ共和国)の常備軍の中で独自の発展を遂げた音楽(軍楽)です。より正確には、軍楽隊の個々の隊員を指すそうで、オスマンの軍装に身を包んだ軍楽隊のことをメフテルと呼んだりすることもあるようです。

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 我が国で最も有名な、というかよく耳に馴染んだメフテルといえば「ジェッディン・デデン/Ceddin Deden」でしょう。お聴きください。

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 勇壮かつ悲愴な決意が感じ取れるこの軍楽の歌詞(訳)は以下のとおりです。

ジェッディン・デデン Ceddin Deden(祖先も祖父も)

1祖先も 祖父も
 祖先も 祖父も
 勇猛なるトルコよ!

 汝の軍隊は幾度となく
 世界にその名を轟かす!
 汝の軍隊は幾度となく
 世界にその名を轟かす!

2トルコ国家よ トルコ国家よ
 トルコ国家よ トルコ国家よ
 汝の自由を享受せん!

 祖国の敵を打ち負かし
 忌わしき奴等に絶望を与えん!
 祖国の敵を打ち負かし
 忌わしき奴等に絶望を与えん!

 17世紀に最大版図を誇ったオスマン帝国は、言わずと知れたイスラムの大帝国であり、長い間ヨーロッパの人々にとって深刻な脅威であり続けました。欧州の各諸侯軍は、オスマン軍の影も形も見えないうちから、風に乗って届くメフテルの響きに震え上がったそうです。それでもメフテルは、音楽家にとっては刺激的な存在であったようで、2度にわたるオスマン帝国軍のウィーン包囲戦の最中、オスマン軍から流れる調べがモーツァルトやベートーベンを魅了したからこそ、その影響を受けた、それぞれの「トルコ行進曲」が生まれたという訳です。

 そんなオスマン帝国も、19世紀に入り北から勃興してきたロシアに押される形でその勢力を弱めて行きました。そして1878年(明治11年)の露土戦争に破れたオスマン帝国は、サン・ステファノ条約により多額の賠償金を供出させられた上に、バルカン半島の大部分を手放すことになりました。

 当時の日本で、オスマン・トルコ帝国はどのように認識されていたのでしょう。

 まだ研究が十分に進んでいない分野なので、確たることは言えませんが、2016年12月発行の「東洋大学社会学部紀要」に収録された三沢伸生さんの「明治期の日本社会における露土戦争の認識」という論文を読むと、創設間もない帝国陸海軍の露土戦争そしてオスマン・トルコに対する並々ならない関心の高さが感じられます。

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 国交樹立前から、視察や留学のために欧州方面に行き来する軍人を必ずイスタンブールに立ち寄らせたり、海軍艦艇を何度か寄港させたりしていたようです。当時の明治政府の意図が何であったかは今後の研究成果に待たねばなりませんが、直感的には、仮想敵と認識されつつあったロシアを強く意識した動きだったのだと思います。

 そのような流れの一つが、1887年(明治20年)の小松宮彰仁親王殿下のイスタンブールご訪問ではなかったかと私は考えています。殿下は、欧州視察の帰路、オスマン・トルコ帝国に立ち寄られ、スルタン(皇帝)アブデュル・ハミト2世に謁見されました。

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小松宮殿下・中央左、とアブデュル・ハミト2世・同右、白軍装・帯刀)

 この時殿下がお受けになられた歓待への感謝の御気持ちとして、翌1888年(明治21年)、明治大帝はスルタンへの親書と装飾品(漆器)を御贈りになりました。

 ここからが、今回の本題です。随分長い前置きでしたね、でも頑張ってもう少し読みましょう(╹◡╹)

 アブデュル・ハミト2世陛下は、さらに翌年の1889年(明治22年)7月に明治大帝からの親書への返礼として、日本への初めての使節団を派遣しました。

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(エミン・オスマン海軍少将)

 エミン・オスマン海軍少将を代表とする使節団は、オスマン帝国海軍フリゲート「エルトゥールル」に乗艦しての日本訪問となりました(「エルトゥールル号」と呼称されるケースが多いようですが、海軍艦艇の艦名に「号」は付さないのが慣例ですので、ここではそれに倣います)。

 「エルトゥールル」は、艦齢26年のベテラン(即ち老朽艦)であり、しかも、木造の機帆船(エンジンを搭載した帆船)でした。

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オスマン・トルコ海軍フリゲート「エルトゥールル」)

 同艦は、途中イスラム圏の各国に寄港して、イスラムの盟主たるオスマン帝国皇帝の威光を顕示しつつ約1年をかけて回航し、1890年(明治23年)6月に横浜港に入港しました。

 エミン・オスマン海軍少将は、明治大帝に拝謁し、以後約3ヶ月間にわたり、日本に滞在しました。同年9月に日本を発つのは予定通りなのですが、日本側の関係者らは、台風の季節でもあることから、老朽化した木造の艦体を修理補強してから出発してはどうかとアドバイスしました。しかし、帰国が遅くなることを嫌ったオスマン少将は予定通り9月15日に横浜港を出航して帰国の途につきました。

 気象衛星どころか、気象レーダーさえない時代です。日本のすぐ近海まで迫っている台風の存在など、誰にも知る術がありませんでした。

 横浜を出航した翌日、128年前の今日、夜半に和歌山県大島村(現・串本町)沖を航行中の同艦は、台風による暴風と波浪に翻弄されてコントロールを失い、同村にある樫野埼灯台付近の難所、船甲羅岩礁に吹き寄せられて座礁、艦体が裂けそこからの浸水がエンジンに入ったため大爆発を起こし沈没しました。

 座礁と大爆発の直接的な受傷による他、海に投げ出された者も、猛り狂う波浪によって一面の岩礁に何度も叩きつけられ、多くの命が失われました。

 瀕死の状態で海岸まで流れ着いた満身創痍の乗組員が、真っ暗闇の暴風雨の中で唯一の灯りであった樫野崎灯台までの崖を必死の思いで登り、灯台守に姿を晒すことができたおかげで悲惨な海難事故が起きていることが認識されました。灯台守は真っ暗闇の中、大島村へ走り急を告げます。小さな村の住民は総出で駆けつけ、男たちは海岸での救出と救護、女達は生存者の手当と介護に当たりました。海岸に打ち上げられ低体温症に陥っている者には、男達が諸肌脱いで自らの体温を与え、一人でも多くの命を救おうと、文字通り不眠不休の救出活動が続きました。

 こうして、69名の命がつながりましたが、使節団長・エミン・オスマン海軍少将はじめ約600名がこの事故の犠牲となりました。大島村の住民は、収容した遺体も丁寧に埋葬しました。

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(「エルトゥールル」乗員)

 本土とは船でしか行き来できない大島村は、台風で孤立し、漁もできず、村人の食料さえままならない状態でしたが、69名もの遭難者を救うため、手持ちの食料は全部供出し、本当に困ったときのためのライフラインとして各家庭で飼育している鶏まで全てを彼らに食べさせるために差し出したそうです。「お天道様が守ってくださる」と。

 台風が去って、本土に情報が伝えられ、日本の行政サイドがこの事故のことを知るや、国をあげての救援態勢が敷かれることとなりました。また、この事故のことは新聞でも大々的に取り上げられたため、国民の強い関心を集め、多くの人々からの義捐金も寄せられました。生存者69名は、神戸の救護病院に移されて手厚い治療を受け、元気を取り戻した後、大命により軍艦「金剛」「比叡」にて本国まで丁重に送り届けることとされました。

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(神戸救護病院前での記念撮影)

 1891年1月12日、イスタンブールに入港した両艦は大歓迎を受け、皇帝陛下からは、両艦艦長に対し勲章が授与されました。自国の軍艦が外国訪問中に座礁爆沈し、多数の将兵の命が失われた痛ましい事故ではありましたが、事故後の日本人の懸命の救助救命活動や、国をあげての支援、また多くの国民から義捐金が寄せられたことなどはオスマン・トルコの人々の心を打ち、現在まで続く両国の友好関係の先駆けとなりました。

 5月27日に「何の日」シリーズで日本海海戦を取り上げましたが、トルコ国民が日本の勝利を我が事のように喜んだのも、単に宿敵ロシアの海軍を破ったからだけでなく、「エルトゥールル」以来の親日感情が強かったからだと思います。

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 記事冒頭の写真は串本町にある「トルコ軍艦遭難慰霊碑」です。5年に1度日本・トルコの関係者による慰霊祭が行われ、海上自衛隊からも多数が列席します。

 この話には後日談があります。

 「エルトゥールル」の悲劇から95年を経た1985年3月17日、イラン・イラク戦争のさなか、一方の当事国であるイラクの大統領サダム・フセインは、「48時間を経過した後、(戦争相手国である)イラン上空を飛行する全ての航空機を攻撃対象とする」と世界に向けて宣言したのです。

 もちろん、そのような行為は、各種の国際条約や戦時国際法に抵触するものであり、認められるはずもありませんが、純軍事的には画期的な意味を持ちます。

 航空作戦で最も神経を使うのが、敵味方の識別だからです。ある空域に存在するのが敵航空機だけだとすれば、これほど簡単なことはありません。狡猾なのは、期限を宣言しただけで、具体的な攻撃を始めた訳ではありませんから、誰も手出しのしようがありません、非難するだけです。フセイン大統領にとって、そんなものは痛くも痒くもありません。

 実際の攻撃が行われるかどうかは誰にもわかりませんが、その可能性がある空域を飛ぶ民間機は無くなります。つまり、実際の攻撃を行うことなく、完全に目的を達成できる訳ですから、天才的な作戦だと言えるでしょう。

 空路が使用できなくなれば、イランに滞在している自国民は帰国の自由を奪われることになる訳ですから、各国は自国の軍用機や民間チャーター機を次々とテヘラン空港に向かわせ、手際よく自国民の救出に当たりました。一方、我が国では、なすすべも無く時間だけが空費されていきました。

 現在では考えられないことですが、当時の日本では、自衛隊の部隊が国外に派遣されることなど、想定外のさらにもっと向こうの話であって、そんなことだけは絶対に「許さない」という時代でしたから、自衛隊機による救出はオプションに入りません。もっとも、そもそも国内での活動しか想定できない自衛隊には足の長い航空機もありませんでしたから、物理的にも無理な話でした。

 ですから、日本政府は、当時我が国で唯一国際運航を担っていた日本航空にチャーター便の手配を依頼したのですが、「乗員の安全が確保されない限り応じない」という、絶対にクリアできない条件を突きつける労働組合の事実上の拒否により、断念せざるを得ませんでした。

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 因みに、政府の打診を受けた日本航空で、真っ先に志願したのは、この年の8月12日、整備不良のため飛行中に操縦機能を失い墜落した日航123便の機長、高濱雅巳さんだったそうです。海上自衛隊の先輩である高濱さんの心意気に共感します。

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 日本航空の協力が得られなかった外務省は各国に救援機の手配を依頼しますが、どの国も自国民の救出に手一杯ですし、そもそも自国は一切のリスクを取らずに他国に丸投げするような国の国民を、一体誰が危険を冒してまで救出するでしょうか。

 最後の頼みと、野村豊・駐イラン日本国特命全権大使が、個人的な親交関係により、同じくテヘランに駐在していたトルコ共和国特命全権大使イスメット・ビルセル氏に窮状を打ち明けたところ、直ちに本国に打診し、本国政府から「応ずる」との回答を得ました。驚くほど早い対応です。

 生憎、トルコ政府が応諾した日時については承知していませんが、それまでの経緯を見る限り、十分な時間が残されていた段階ではないと思います。そもそも、48時間の期限を切られた時点で、「間に合うかどうか」というほどの切迫した事態なのですから。

 トルコ政府は、自国民救出のための最終便を1機から2機に増やして対応したと、色々な記事にさらっと書いてありますが、航空機を1機増やすのは、居酒屋で「枝豆もう1つお願い」と言うようなわけにはいかないのです。

 期限が切迫していますから、直ちに飛べる機体とクルーの確保が絶対条件ですが、民間航空会社には、「遊んでいる」機体はありません。1機を捻出するために払われた努力がどれほどなのか想像もつきません。そしてクルーです。土壇場になっての追加便ですから、期限内にイラン上空を出ることができないかも知れません。大変危険な任務になります。ところが、トルコ航空がクルーを募ったところ、多数の志願があったそうです。

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 更に、チャーター便を増やしても、残留トルコ人と日本人の全員を収容することはできなかったようなのですが、何と、日本人を優先して搭乗させ、残ったトルコの人たちは陸路で本国へ向かったそうです。国境が接しているとは言え、トルコ・イランの国境付近は分離独立を求めるクルド人の勢力圏であり、決して安全なルートではないのです。それでも、トルコ政府もイランに駐在していたトルコの人々も、日本人の救出を優先してくれたのです。

 何故、そうしてまで日本人の救出に心を砕き、努力を傾けてくれたのか。

 もうお分かりですよね。

 トルコでは、1890年の「エルトゥールル」の悲劇と、日本人の献身的な救助救命活、そして国をあげての救援などについて学校の教科書にしっかり記述されており、トルコ人でこの逸話を知らない者はないのだそうです。だからこそ、トルコは今でも大の親日国であり、日本のことを「兄弟国」だと強く感じているのです。

 「今こそ、エルトゥールルの恩を返す時だ」

 トルコ政府も、トルコ航空のクルーも、そんな強い思いを抱いていたのだと思います。後日、駐日トルコ大使が「エルトゥールルで日本の皆さんから受けた恩を、トルコ人は忘れたことがありません。ですから、テヘランでのことは当然の恩返しなのです。日本人が知らないだけなのです」と仰っていたそうです。私たち日本人は、テヘランでの恩を、忘れずにいることができるでしょうか?

 100年以上前に、私たちの先達が示した「人のために尽くす」「今できることを精一杯やる」、そして、人様のために精一杯尽くしている限り「お天道様が守ってくださる」という生き様。似たような逸話は、有名無名を問わず、きっと数限りなくあるんだと思います。

 そういう一つ一つの誠意が、長い時を経て現在の私たちを守ってくれているのではないでしょうか。つまり、今ある日本は先達の遺産です。現在を生きる私達の力量ではないのだと思います。

 それに対して、現在の私たちは何をしているでしょう。先達の残された遺産をただただ食いつぶしているように思うのは私だけでしょうか。

 徳を積み、世界の人々のために誠意を持って力を尽くす。自分のことは後回しでいいから困っている人、困っている国をまず助けよう。汚れ仕事、嫌な仕事は真っ先に手をあげて、自分がやろう。かつてそうであったような、そんな社会、そんな国にならなければ、自分の子や孫に何も残してやることはできないでしょう。

 

 頭でっかちで、権利ばかり主張する。そんな国民に未来はありません。