あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

三宅由佳莉さんの「花は咲く」

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 一昨日から、私の家の周りで蝉の鳴き声が響き渡り始めました、ここ横浜は、夏本番の暑さです。

 私は、湿度は嫌いですが、今日のようなカラッとした夏の暑さがとても好きです。

 ですから、窓を開け放ち、自然の風が部屋の中を静かに流れて行くのを、感謝の気持ちを持って楽しんでいます。ほんのわずかな空気の流れが、私にとって心地よい空間を作ってくれるからです。こんな些細なことですら、自然の恩恵だと思います。

 でも、人間にとって都合のいいことばかりではありませんよね。

 特に、国土自体が火山の連なりで、ユーラシア大陸の太平洋側の防波堤のような位置関係にある我が国は、恩恵よりも、むしろ厳しい仕打ちを自然から受ける機会の方が多いような気もします。

 西日本を襲った今次の豪雨災害もそうです。日本という国の美しい特色でもある、豊かに水溢るる風景に恩恵をもたらす雨も、度を越せば全てを破壊し、奪い尽くします。

 日本人は、太古の昔から、自然の恩恵に付随するこうしたリスクを「荒ぶる神」として畏れ、祀り、鎮まることを願いながら共存する道を歩んできました。そこにあるのは、人知を超えた存在への畏れ、敬いであり、諦めではなかったかと思います。

 同時に、「おかげ様」「お互い様」というように、「悲しいのは自分だけではない」「苦しいのはみんな一緒だ」という自分の気持ちとの折り合いの付け方や、苦しい時こそ発揮される他者への細やかな配慮が、私たち日本人の平均的な特性となって育まれてきたように思えます。

 そんな日本人の特性が、目に見える形で世界に驚きを与えたのが、東日本大震災後の被災者の振る舞いでした。様々語られる驚嘆の言葉を目にして、日本人として悪い気はしませんが、「少し大げさかな」「そんなことはないだろう」と思えることも多々ありました。

 でも、一つ強く印象に残り、心に響いたことがあります。

 「自らの身を打ち、泣き喚く姿は見られず、悲しみそのものが気高い」

 中国や朝鮮半島では、とにかく大声で泣きわめき、身を掻きむしって床を叩き続けるような激しい表現でなければ、悲しんでいるとは認められないそうです。ですから、葬儀を”盛り上げる”「泣き女」というプロが呼ばれるのだと聞いたことがあります。

 そんな彼らから見ると、我が国のしめやかな葬儀の風景は、とても「冷淡」に思えるのかも知れませんが、世界の多くの人々の目には「悲しみそのものが気高い」と映るのでしょう。

 決して悲しみが小さいわけではない、心が張り裂けそうな思いは、その人の佇まいに滲む無言のメッセージとなって見る者の心を打ちます。

 しかも、ただ悲しんでいるのではありません。多くの場合、自分を責め苛んでいるのです。「なぜ、助けてあげられなかったのか」「あの時、自分がああしていれば」「こんなことなら、好きなことをさせてあげればよかった」…そうした自分を責める思いは尽きることがありません。

 東日本大震災の被災者の心を慰め、応援する目的でつくられた「花は咲く」という歌は、震災で大切な人を失った被災者のそんな悔恨と慚愧の念を、静かに昇華させてくれる優れた楽曲だと私は思います。

 歌詞を辿ると、被災者が負担に感じることのない形で、その心を優しく解きほぐすための、信じられないような細やかな配慮が巡らされているのが良くわかります。

 多くの歌い手により歌われているこの曲ですが、私は、三宅由佳莉さんによる歌唱が一番好きです。もちろん、ファンだから当然ということもありますが、この曲の歌詞に込められた思いへの深い理解と、聴く者の心の襞を寸分なく丁寧に埋めて行くような歌声が相まって、この曲をさらなる高みへと導いているように思えるからです。 

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 「祈り〜a prayer」と並ぶ、三宅由佳莉さんの代表曲だと私は思います。