昨日、「三宅由佳莉さんの弁え」という記事で、三宅さんのさりげない行動に、共演している他の音楽隊員へのリスペクトが伺われ、そのような弁えが、三宅由佳莉さんの言動の基礎であり、他の音楽隊員から愛される理由であるに違いないと書きました。
この記事に対して、「kaietn91」さんから、次のようなコメントを頂きました。
「『弁える』三宅由佳莉さんが備えてる要素、これは東京音楽隊の全ての隊員においていえることかと私は思っています。プレイヤーをフューチャーし合える職場環境。
互いに切磋琢磨し、日々の様々な努力を知る間柄だからこそ生まれる温かみを感じることも東京音楽隊の皆さまと接する楽しみの一つです。赤坂のランチタイムコンサートでは、早めに会場入りしますと分隊ごと昼食をとられている様子を見ていますとやはり、平素が大事だなと感じることがあります。」
私は「はっ」として、記事を読み直し、愕然としました。
ニコニコ超音楽祭での東京音楽隊の驚きのステージに心が舞い上がっていたということもあるかも知れませんが、正直言って「醜い」記事です。
以前、「三宅由佳莉さんのファンとして」という記事でも書きましたが、私は、三宅さんを熱心に応援するあまり、神格化することのないよう、時々戒めることを自分なりのルールとしています。盲目的な崇拝者になってしまったのでは、本当の意味で応援していることにはならないと思うからです。
ところが、昨日の記事はどうでしょう。
木を見て森を見ず、まさに「盲目的」な観点で書かれています。
三宅由佳莉さんが根を張って支えられている、東京音楽隊という大いなる森への視点がすっかり抜け落ちているのです。
これまで何度か、あれこれ迷いながらも、ついには吹っ切れて、三宅由佳莉さんのことについて書くことが、素直に喜びであると思えるようになったことを、先般「三宅由佳莉さんのことを『書く』ということ」という記事で報告しました。
そして、このところ、あたかも堰を切ったかのように「三宅由佳莉さんの」シリーズばかりを書き続けてきました。
でも、執筆意欲の赴くままに書き進めるなかで、大切なことを忘れていたように思います。それは、「三宅由佳莉さんのファンとしての弁え」に他なりません。
つまり、「盲目的」な「崇拝者」となっって三宅由佳莉さんを「礼賛」するのではなく、三宅さんの立場に立って、本当の意味での応援を続けていくということです。
この弁えもないまま、「三宅由佳莉さんの弁え」などという記事を、どの面下げて書けるのか、全く恥ずかしい限りです。
ですから、昨日の記事は削除しようかとも思いましたが、自分への戒めとして、醜いまま晒しておくことにします。
そして、また同じ過ちを繰り返すようならば、このブログを閉じようと思います。弁えもなしに、何を書いても無意味だからです。
そのようなことにならないよう、初心に返り、真摯に三宅由佳莉さんのことを応援していきたいと、改めて思っています。
初心に返るきっかけを与えてくださった「kaiten91」さんには感謝の言葉もありません。本当にありがとうございました。