あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

今日は何の日?(4月15日)

 今から108年前、明治43年の今日、帝国海軍で悼ましい事故が発生しました。

 広島湾で潜行訓練に従事していた第六潜水艇が、吸気口からの大量浸水のため沈没し、艇長・佐久間勉大尉以下14名が殉職した大事故です。

 当時はまだ珍しかった潜水艇の事故であり、多数の海軍将兵が犠牲になったことから、当然大事件として注目されましたが、この事故で殉職された14柱の御霊を慰めるため呉市の鯛乃宮神社に建立された「第六潜水艇殉難者之碑」の前で、これまで毎年絶えることなく追悼式が営まれてきたのには、特別な理由があるのです。

f:id:RetCapt1501:20180414163536j:plain

 (第六潜水艇。現在の潜水艦と比べると驚くほど小さいですね。)

 当時、潜水艇はまだまだ安全性に改善の余地を大きく残す艦艇であり、他国の海軍でも沈没事故は少なくありませんでした。それら、沈没した潜水艇を引き上げてハッチを開けると、例外なく、我先に艇外に逃げようと殺到した乗員がハッチ付近に折り重なり、あるいは互いに殴り合うなど、あさましい有様で亡くなっていたそうです。

 ですから、帝国海軍が事故翌日にようやく第六潜水艇を浅瀬まで運び、ハッチを開ける際には、我が海軍の威信が問われる緊張感が走っていたに違いないと思います。

 事故状況の検分を命じられた吉川中佐は、ハッチを開け、艇内を確認したところで、「よろしい!」と叫び、その後堪えきれず、男泣きに泣き崩れたといいます。

 艇内では、佐久間艇長以下全乗員が、最期の瞬間まで各々の持ち場を守り、任務を全うしながら亡くなっていたからです。

f:id:RetCapt1501:20180401234827j:plain

(佐久間勉 海軍大尉)

 それだけではありません、配電盤が海水に浸かり艇内電源が失われ、有毒ガスが発生する状況下で、佐久間艇長が書き残した遺言が、感動を呼びました。

 自分の不注意で陛下の艇を沈め、部下を殺すことになったことを詫びつつ、この事故が原因で潜水艇の研究開発が頓挫することを憂い、可能な限り詳細に事故の状況を書き記しました。そして、事故原因の解明が潜水艇の発展に寄与できるならば、乗員全員、なんの後悔もないとしています。

 更に、明治大帝に宛てた公遺言として、殉職する部下の家族が路頭に迷うことのないようにしてやってほしい、自分の心配事はそれだけである、と書き残しました。

 当時、遺族への補償制度など全くありませんでしたから、この公遺言については明治天皇まで上奏され、即決の勅命によって叶えられました。

f:id:RetCapt1501:20180414163115j:plain

佐久間艇長遺書全文   (佐久間艇長の遺言を記したメモ)

 佐久間艇長以下の透徹した使命感と勇気については、国内のみならず、世界中に配信され、大きな感動を呼びました。国内では「修身」の教科書に掲載されて、子供達に責任感や勇気の大切さを教える教材となりましたし、米国では国立図書館の前にこの遺言を刻んだ銅板が設置され、大東亜戦争で両国が干戈を交えた際にも撤去されることはなかったそうです。また、英国海軍では、現在でも佐久間艇長の統率力について教育が行われているとのことです。

www.youtube.com

 戦前の教育を受けた、私の親の世代以上は、皆第六潜水艇殉難の話を「修身」で学んできたはずですが、戦後の教育現場では、海軍軍人であるという理由で、道徳の教科書の題材の候補にすら挙げられることはなかったでしょう。

 でも、私は思います。佐久間艇長以下が示した「沈勇」は、海軍軍人だったからではなく、彼らが日本人だったから示し得たものであると。

 だからこそ、日本人らしい責任感と勇気の大切さを子供達に伝え、日本社会のDNAを繋いでいくためにも、佐久間艇長の逸話は我が国民の広く知るところとなってほしいと思うのです。

 さて、佐久間艇長のこの逸話、海上自衛隊ではどのように扱われていると思いますか?そうですね、当然統率の大切な題材として、また海のさきもりとしての心構えを教える教材として活用されていますので、海上自衛官で、この逸話を知らない者はいません。

 防衛大学校あるいは幹部候補生学校、どちらの部隊実習だったか忘れましたが、呉にある潜水艦教育訓練隊(潜訓)で実習をする機会があり、ダメージコントロール(被害対処)について実艦で説明を受けていた際、ある区画が浸水を始めた場合には、その区画を放棄して水密扉で密閉する、という説明を受けました。考え方は水上艦艇と全く同じなので違和感がありませんが、問題は水密確保の方法です。

 水上艦艇の場合、浸水区画の隣区画から、つまり外側から扉を閉めてその区画を密閉します。ところが、潜航している潜水艦には、水上艦艇の何倍、深度によっては何十倍もの水圧がかかっており、外側から密封したのでは水密ドアが水圧に耐えられないのです。そこで、潜水艦の場合は、浸水区画の内側から、浸水の圧力を利用してドアを圧着させる必要があるというのです。

 「ということは、内側に誰か残ることになるのでは?」と質問すると「その通り」と、あっさり回答され、続けて「潜水艦乗りは、そのことをしっかり叩き込まれており、一番近くにいる者がその役を担うという覚悟ができている」とのことでした。

 佐久間艇長以下の示した透徹した使命感と勇気は、帝国海軍の潜水艦乗りから海上自衛隊のサブマリナーにしっかりと受け継がれていました。

 海上自衛隊では、鯛乃宮神社での追悼式も毎年全面的にバックアップしています。今日も、呉地方隊、第一潜水隊群、潜水艦教育訓練隊、そしてもちろん呉音楽隊が同神社での支援に当たっているはずです。儀仗隊による着剣捧げ銃での国旗掲揚や弔銃発射などの儀式、音楽隊による儀礼演奏などは、追悼式に厳かな雰囲気を添えるでしょう。

 本日の追悼式の様子が収められた動画がありますので、興味のある方はご覧になってください。

www.youtube.com

 下は、昨年の動画です。

www.youtube.com  

 動画の中で、国旗掲揚の際、一旦一番上まで揚げた国旗が次の瞬間するすると途中まで降ろされます。これを「半旗」といい、御霊に対する弔意を示す、世界共通の儀礼です。ある意味、御霊に対する国からの敬礼のようなものです。以前、「船の敬礼」という記事でも紹介しましたが、船同士の敬礼も船尾・艦尾の国旗や軍艦旗を半旗にして行いましたよね。

 今回は、海上自衛官なら誰でも知っているけれど、国民一般にはほとんど知られていない、責任感と勇気の物語について紹介させていただきました。

 最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。